シュンゲン協定に守られて ②

3月7日の午前8時頃、今回の旅行の参加者全員がウィーン駅前のカフェに揃った。COVID-19の流行によって渡航を断念した参加者が何人かいたため、当初の予定よりもだいぶ人数が少なってしまったが、さっそく今後の旅程について話し合うことにした。

 

まず、大原則として、メンバーの安全が第一、そのためなら大幅な工程変更も辞さないという方針で一致した。そして、最終的な判断を下すリーダーを一人決めた。
次に、具体的な旅程について再確認した。当初の旅程では下記のようなルートで中欧と旧ユーゴスラビア諸国を巡る予定だった。

ウィーン→ブラチスラバブダペストザグレブリュブリャナスプリトドゥブロヴニクポドゴリツァベオグラード

当時、これらの国々ではCOVID-19の感染者はほとんど確認されておらず、直接的な感染リスクは高くないと判断した。むしろ、日本からの渡航者という理由によって、法令による隔離措置や私的な乗車拒否・宿泊拒否をされるリスクを懸念していた。クロアチアでは、他の国々に先駆けて、政府が日本からの渡航者に対して滞在地と健康状態を指定された疫学者に報告する義務を課していた*1ため、特に情報収集に力を入れることにした。
クロアチアEU加盟国だがシュンゲン協定には加盟していないため、出入国の際に国境検査が必要となる。一度入国すると身動きが取れなくなるリスクがあるため、クロアチアに入国する際には慎重な判断を要するという認識で一致した。

 

もう一つ心配な事案は、3月5日にブダペストで日本人観光客15人が当局によって隔離されたという報道だった。しかし、全員がせきをしていたためだと複数の記事が報じていたこと、他に日本人観光客に対する同様の措置は全く確認されていていないことから、今のところは極めて特殊なケースであり、行程に支障はないと判断した。

www.nikkei.com

 

その他の確認事項も含め、話し合いは2時間くらいで終わった。事前にSlackで詳細な行程と全員分の帰国便、COVID-19関連の情報をまとめていたので、思ったよりスムーズに進んだ。

 

Wienではウィーン・モダン展で見たクリムトの絵を思い出しながらリングシュトラーセを歩いたり、ザッハトルテの頼み方が分からずに四苦八苦したりした。

 

夕方にWienを経ち、鉄道でBratislavaに向かった。Bratislavaの旧市街は、クルマの侵入がないこともあって、幻想的な静けさに包まれていた。Wienが世界遺産ならこちらは宇宙遺産レベルでもおかしくないだろう。知人が「永遠にマイナーであってほしい」と言っていたのがよく分かった。

 

Bratislavaで泊まった民宿では、別の部屋から若い日本人観光客の話声が聞こえてきた。

 

3月8日はBratislavaを観光した後、鉄道でBudapestに向かい、そのまま市内のホテルに宿泊した。

 

――3月9日。
この日、初めて行程変更が生じた。
クロアチア政府が日本からの旅行者に対して14日間の自主隔離を義務付けると発表した*2ため、クロアチアへの入国が事実上極めて困難になった。そこで、クロアチアへの渡航を断念し、3月9日にリュブリャナからポドゴリツァへ飛ぶモンテネグロ航空の便を予約した。スプリトドゥブロヴニクの宿は無料キャンセルすることができた。


当初の行程と比べると、クロアチアを丸々スキップする形となった。

ウィーン→ブラチスラバブダペストリュブリャナポドゴリツァベオグラード

クロアチア政府が一段と厳しい措置を取ることは想定していたため、この行程変更はスムーズに進めることが出来た。恐らく、元々イタリアからアドリア海沿いの観光地を訪れる人が多いため、周辺諸国と比べて飛びぬけて強い措置が実施されていたのだろう。

 

行程変更によって余裕ができたため、この日はBudapestに留まり、温泉に入ったりドナウ川沿いを歩いたりした。友人が冗談で川に突き落とすフリを仕掛けてきたが、後に鉄製の靴のモニュメントを見て反省していた。

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この場所で行われた虐殺を記憶し、追悼するモニュメント


市内の公園を歩いていた際、現地の人から初めて(この旅行で最初で最後の)ウイルス煽りを受けたが、敵対心は感じられず、からかうような口ぶりだった。ドイツ語で反応したが、何も返答はなかった。

 

この頃からイタリアに続いてスペイン、フランス、ドイツなどでの感染の拡大が懸念され始めていた*3が、中欧では感染確認者が2桁レベルにとどまっていて*4、まちを歩いていても普段通りの生活が営まれているように感じられた。Budapestの夜空には、酒場で騒ぐ若者たちの叫び声が響き渡っていた。